深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第9話)

10。これまでの邪馬台国論争 =邪馬台国と卑弥呼の比定=

 邪馬台国についての本格的論争は、江戸時代、二人の学者、新井 白石(あらいはくせき)と本居 宣長(もとおりのりなが)によって始まった。まず、新井 白石(1657-1725)は江戸時代の旗本で、幕政の補佐役を務めた人である。白石はその著作、古史通或問 (こしつうわくもん)という歴史書のなかで、邪馬台国の位置を、現在は奈良県の大和国とした。しかしもう一つの「外国之事調書』では福岡県の山門郡(現在のみやま市や柳川市あたり)であるとして、先の邪馬台国比定地を覆(くつがえ)した。白石の没後に生まれた本居 宣長(1730-1801)は伊勢松坂の豪商の出身で、江戸時代の国学者であるが、著作の「古事記伝」のなかで、国学者の立場からか、外国人が書いた倭人伝に疑念を持ち、間違い箇所だと勝手に判断したり、卑弥呼は朝廷の名をかたる九州の熊襲のたぐいであると主張した。

 歴史学者であり、東京帝大教授であった白鳥 庫吉(しらとりくらきち、1865-1942)は、その著書、「倭女王卑弥呼考」を明治43年(1910年)に著し、「邪馬台国北九州説」を主張した。これに対して、東洋史学者であり、京都帝大の内藤 湖南(ないとうこなん、1866-1934)教授は「卑弥呼考」を著し邪馬台国畿内説を主張した。これによって、東大は邪馬台国九州説、京大は邪馬台国畿内説の様相を呈した議論になっていった。

 しかし、いつの時代も、歴史は権力者、勝利者にとって都合のいいものに編纂されるものである。歴史学者であり、白鳥 庫吉の指導も受けたこともある早稲田大学教授の津田 左右吉(つだそうきち、1873-1961)は記紀のなどの史料批判研究を行っていた。その中で、神武天皇は実在せず、神武東征や仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)以前の天皇は架空だとか、いろいろと批判していた。そのことが天皇家を冒とくしたことになるとして、著書「古事記及び日本書記の研究」は発売禁止になってしまった。皇祖信奉が叫ばれた時代、昭和15年、太平洋戦争突入前年のことである。邪馬台国論争はその後も延々と続いている。

 そこで、これまでの研究者や学者が提唱してきた邪馬台国の位置や女王卑弥呼について、比定地が日本国内の提唱者124人の主張結果をまとめてみた。それが図33である。作図に用いた資料は、邪馬台国図書館 館長だより第14号(2012年)である。邪馬台国論争の中で最高難度の論点が邪馬台国の位置・場所の問題であるが、この図から、これまでの主張が畿内説と九州説に大別できることがわかる。邪馬台国を福岡県とする主張者は53名、奈良県であるとの主張者も47名であったが、範囲を広げて、九州か畿内かという分け方だと、九州の方が100名、畿内が91名で、九州であるという主張者が多い。畿内は奈良県に集中している。九州は、福岡県、昔の山門郡、現在のみやま市あたり、それに大分県の宇佐市あたりの三ヶ所が主である。従って、邪馬台国の位置論争は、邪馬台国奈良説と九州北部説という方が正しいかも知れない。

比定地
図33. 邪馬台国と卑弥呼の比定

 邪馬台国論争の中には、邪馬台国に至る方角の読み方を直線的、連続的に読むか否かの問題、それと距離が短里であることの妥当性である。しかし、これらの議論よりも関心の高いのが卑弥呼は誰なのか、歴史上の誰に比定できるかの議論である。邪馬台国大研究のHPには、誰が卑弥呼であるかの調査結果が出ている。それを同図の中に挿入した。一番多いのは、神功皇后(じんぐうこうごう)である。神功皇后であるとの提唱者は、邪馬台国奈良説者も九州北部説者も同じように指摘している。

 神功皇后は第14代天皇、仲哀天皇の皇后である。仲哀天皇の崩御から約70年もの間、天皇に代わって政務についた。そればかりではなく熊襲征伐では仲哀天皇に随行し、朝鮮半島の新羅(しらぎ)など三韓征伐(さんかんせいばつ)には身重の体で出かけたとの伝えがある。
しかし、魏志倭人伝には卑弥呼のことを、こう書いてある。
  「・・名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國・・」
意味は、名を卑弥呼といい、祈祷(きとう)を行い、人々をうまく従わせていた。
高齢で夫はなく、弟が国を治める助けをしていた、である。これらが事実ならば、神功皇后を卑弥呼とする真意が理解できない。それに、仲哀天皇は熊襲征伐に出かけた天皇である。熊襲征伐に出かけたということは、邪馬台国が敵対関係にあった熊襲国に負け、九州の覇権者になっていたことになる。そうだとしても、邪馬台国の終焉は、前述したように、5世紀初め(413年)である。神功皇后の摂政(せっせい君主に代わり政務をおこなうこと)時代は、3世紀半ばであり、時代的にあわない。なお、神功皇后の肖像は、その猛勇ぶりが戦前・戦中の戦意高揚に利用され、紙幣や切手の絵柄になった。

 特定名において二番目が百襲姫(ももそひめ)である。百襲姫は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と、舌がもつれそうな長い名で、第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇女である。この天皇の詳細は不明で、先に述べた欠史八代天皇の一人であるが、百襲姫は、奈良の箸墓古墳(はしはかこふん)の被葬者ではないかとされる方である。百襲姫が卑弥呼であれば、箸墓古墳は卑弥呼の墓となる。しかし。日本書紀には、百襲姫は、現在は桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神の妻となったとあり、魏志倭人伝の「・・無夫婿・・」とは一致しない。この百襲姫を卑弥呼とする提唱者は邪馬台国奈良説者である。

 特定名で三番目に多いのが、天照大神(あまてらすおおみかみ)である。筆者もそうではないかと思う一人である。理由は、アマテラスが統治者と巫女(みこ)の性格を併せ持っていることのほか、そもそも天孫降臨とか天岩戸の鏡の話などは、邪馬台国時代の話である。つまり、天孫降臨とは、地域外から異邦人が移住、ないしは侵略して来て国を治め、覇者になったことを指しており、邪馬台国誕生の時代である。また、天岩戸の鏡の話も、鏡(銅鏡)伝来した三世紀のことであるからである。これらを満たす女性はアマテラスの他にいない。

 卑弥呼比定で二番目だったのが「豪族の娘」である。娘が女王であれば、相応の豪族か権力者であったはずであり、その名は明かされていない。この「豪族の娘」が邪馬台国の卑弥呼や「臺與(とよ)」であった可能性については別項で述べる。ただ挿入図からわかるように、邪馬台国の比定を試みた研究者は124名、そのうち卑弥呼の比定者は64名でしかない。いかに、比定が難しく、不確定な部分が多く、論争が長きにわたっているかがわかる。

<つづく>  
↑ 戻る 
第8話へ |目次 | 第10話へ